2015年2月28日土曜日

深野一穂


『演劇クエスト・横浜トワイライト編』冒険の記録(2015年2月21日実施)


自己紹介

 67歳男性で無職、リタイアしてから5年近くが過ぎた。
 何代遡れるか判らないけれど、少なくとも3代は横浜駅から南西に向かって徒歩20分ほどの住宅密集地に起居する。みなとみらい地区へも徒歩20分ほど、横浜駅とみなとみらい地区間も徒歩20分ほどだ。ゆえにこの一帯が私のゴールデントライアングル。関内地区を加えれば、行動の大半はその中で済む。
 未来都市を思わせる一帯だが、私の子供の頃は三菱ドックが鎮座し、その横浜駅寄りに小さな埠頭がいくつかあって、一角に大島航路の発着所などもあった。停泊する船の間でダボハゼ釣りなどした。
 激変する一帯には、古い物が残り、記憶にだけ残る物がある。そして、知らない物、新しい物も多いだろう。ぼちぼち探そう。冒険の旅に締め切りはない。思いついた時に出かければ、それで良いのだ!!!

写真

 001.jpg 番外:西中山常照寺裏山から関内・みなとみらい遠望
 002.jpg 140 :不気味なトンネル出口
 003.jpg 番外:井土ヶ谷事件跡

冒険の記録


017 京急南太田駅

 赤い表紙の『冒険の書』を手にして駅頭に立つ。駅前広場を眺めて目標の位置を確認する。

番外 西中山常照寺

 いきなりコースアウト、駅裏の常照寺の裏山に登ることにする。南太田駅を通過する利用客なら、丘上にある大きな像に気づいているだろう。そこまで登るのだ。
 大通りに面した山門を潜って京急高架を潜る。階段を登ると左右に下膨れ顔の持国天と多聞天の像を安置する四脚門、すぐに立派な本堂。
 本堂の右手からさらに登る。案内板により行く先が日蓮大聖人銅像公園と判る。最近はトレーニング不足で多少息がはずむが、目見当で標高50mほどの頂上に辿り着く。像の周辺は広場、墓地が隣接する。保土ヶ谷方面から張り出した丘陵の一角だ。
 南から北東に向けて視界は開ける。真下に南太田駅、視線を先に向けると首都高速の高架。見えはしないが高架の下に大岡川と中村川の分流点、脇に蒔田公園がある。360・70年遡れば、その辺りまで横浜の海が入り込んでいた。
 平地の向うに左右に繋がる丘陵が見える。正面が磯子方面、左端が横浜山手。二つの丘陵に挟まれた平地の大半は埋め立て地だ。すなわち、昔は目の前に広大な海が広がっていた筈、彼方に横浜山手側から突き出た砂州・横浜村も見えただろう。
 付け加えておこう。『演劇クエスト・横浜トワイライト編』は、概ねここから見える範囲内での右往左往だ。

017 京急南太田駅

 脇道もあるが、来た道で南太田駅に戻り、再び駅前広場に立つ。

033 

 広場左手の路地に入る。大通りに出る手前、喉が渇いたので傍らの喫茶店に入る。独立系の喫茶店は貴重だ。おばあさんが店主のようで、内装は古風、音楽は荒井由実か、いや松任谷由美の若い時だろうか。壁に押し付けるようにカバーの懸かったアップライトピアノが置かれている。長いこと弾かれたことがないようだが、華やかな時期もあったことだろう。
 コーヒーを飲み終わり、ようやく本格的な冒険の旅へ出発だ。

038 コンビニが見える。

045 コンビニを背にして右へ進む。

070 ドンドン商店街

 この商店街を歩くのは初めて、自動車で通り抜けることはたまにある。かって、日本舞踊の師匠であった義母を、この近所にあった大師匠の稽古場に送ったこともあった。はるか昔のことである。

079 ニューママセンター前分岐

083 坂途中の分かれ道

093 再び分かれ道

098 高校正門が見える

102 旧清水ケ丘高校前

113 高校周囲を反時計回りに進む

126 清水が丘公園

 大きな公園、中央部へ進むのは初めてだ。この辺りは丘陵の尾根筋、周辺の尾根は微妙に入り組みながら西から東へ延びる。東端は野毛やみなとみらい地区だ。正確には判らないが、大筋で言えば東海道に沿って流れる帷子川と、鎌倉街道に沿って流れる大岡川の分水界になる。
 いつもは西端に接する道路、すなわち浦賀道を歩く時に小休止のために寄るだけだ。かって黒船来航を知って浦賀に向かう坂本龍馬は、この地を足早に通り過ぎた筈だ。しかも真夜中に。詳しくは司馬遼太郎著「竜馬がゆく」を参照願う。
 『冒険の書』の略図に沿って進む。

131 不気味なトンネル前

136 不気味なトンネル

 築90年ほど、長さ250m余で馬蹄形断面、人が3人並んで歩くには窮屈そうな大きさだ。その割につくりはモダンで頑丈そう。内部の裾部分はタイルで覆われ、それより上は波型の鋼板で覆われている。当初仕様だろうか、後補されているのだろうか。入口脇に、2000年に横浜市認定歴史的建造物、2006年に土木学会選奨土木遺産に選定された旨のプレートが掲げられている。
 私が通過した時は人通りもなかったが、後日に通過した時は何人かとすれ違った。向うから影になった人が近づいてきて何事もなく行き交ったが、多少の不気味さを覚える。相手もそう感じただろう。

140 不気味なトンネル出口

 トンネルから少し進むと獅子頭から吐き出される湧水。起伏の多い横浜の地形は、丘陵の裾で水を吐出する。今も、知る限りで4カ所ある。ここを加えて5カ所になった。いずれも飲用には適さない。
 かって、横浜の水は船に積んで赤道を越えても腐ることがない、と小学校か中学校で教わった。水さえも誇りとされた時代があったのだ。人は進歩したのか退歩したのか、胸に手をおいて良く考える必要がある。

143 横浜水天宮・杉山神社

 立派な神社だ。何を願うでもないが拝礼をする。強いて言えば無病息災の感謝か。私は神社神道より原始神道に惹かれるが、都会には感謝を表す自然が少ない。
 手水舎に手水の使い方の案内がある。このところ整理が滞っているが、私のコレクション「手水の使い方」に加えよう。

番外 井土ヶ谷事件跡

 折角だから井土ヶ谷事件跡まで足を延ばす。横浜水天宮・杉山神社前の大通りを、右に進む。なお、左に進めば南太田駅に戻る。
 目の前の信号付交差点が横浜水天宮前、その次の南センター前を左折する。
 バス通りを200mほど進むと、名前なし信号付交差点に至る。右側を見ると20mほど先にY字型分岐、その一角に庚申塚や事件の概要を記した掲示板がある。
 井土ヶ谷事件とは、幕末期に発生した外国人殺傷事件の一つ、現場の地名をとって仮称したもの。文久3年9月2日(1863年10月14日)昼頃、井戸ヶ谷村字下の前でフランス士官カミュが浪人体のものに殺害された。カミュは事件翌日、現在の外人墓地に埋葬された。事件跡は、ここから東南へ約1町(109m)はなれた現在の南区井土ヶ谷下町3の辺り。
 バス通りを直進すると、蒔田橋で大岡川を渡り、すぐに現鎌倉街道に出る。市営地下鉄蒔田駅は近い。なおバス通りは古道浦賀道だ。反対方向に進むと清水ケ丘公園脇を通ってJR保土ヶ谷駅に至る。

017 京急南太田駅

 来た道を戻り、横浜水天宮・杉山神社前を通り過ぎて南太田駅に辿り着く。

 『きっちり足にあった靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。(須賀敦子著 ユルスナールの靴 河出書房新社)』

 改めて冒険の旅に出よう。靴が足に多少合わなくても、まだ立ち止まる訳にはいかない。 (完)




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